光色の絵本3

 背の高い欄干に少女が手をかけ、裸足で地を蹴ってしがみつく。ようやく見えた橋の下には、星の光を映す川が流れていた。最後にものを口にしたのは三日前だから、ずっとしがみついている体力は残っていない。ずるずると落ちていった少女の頬には、コンクリートのやすりがつけた傷が赤く、線となって浮かんでいる。少女は最後の力を出して体を持ち上げ、欄干を背もたれにして夜空を見つめた。そして目を瞑り、すすり泣いた。

さんさんさんと光の流れる音がする。ねえサンタさん、私は緑のブランケットが欲しいな。

「お姉ちゃん、あと三日でクリスマスなんだよ。どこの家にもクリスマスツリーが飾ってあるんだ。街の中央にはとても大きいモミの樹が用意されているよ」
 私の可愛い弟は緑のブランケットを握り締め、目を大きく開いて街の様子を伝えてくれた。そして、どこからか手に入れたパンを半分に分けて、震える私に寄り添った。
-
 架橋されたばかりなのか、新しい橋の下で私たちは暮らしている。この間まで住んでいた、ケーキ屋と宝石店の隙間の方が暖かいけれど、雪を避けるためには仕方がない。
 ここに住むことは弟が決めた。欄干に彫られた花々は、私たちが暮らしていた家の庭と似ていて、懐かしさが私たちを誘ったらしい。
-
「私はいいよ。君が食べなよ」
「でも」
「お腹空いてるでしょ。食べなよ」
 弟は私の手からパンを受け取って半分にちぎり、私に返してくれた。私たちは、口の中へパンを同時に放り込み、顔を合わせて笑う。弟が丸い肩を震わせて笑っている。パンの甘味が口の中に広がった。弟が見せた遠慮の顔が嬉しくて、なんだかとても良い気分になった。
 弟は私にとっての暖炉だ。どんなに寒くても、弟がいてくれるからとても温かい。それでも冬の風は私の体をぎゅうと押しつぶそうとし、震えは止まらなかった。
-
 故郷は東なのか、西なのか、南なのか、北なのか、どこにあるのか知らない。こんなに寒くはなかったから、南の方に行けば帰れるかもしれない。この街で暮らし始めて半年程経っただろうか。私の二回目の夏休みの半ば頃、私たちの今住んでいる橋を渡った先にある、森へ両親に連れられて置いていかれた。私に残されたものは、弟と緑のブランケットだけだった。それっきり、お父さんとお母さんの顔は見ていない。
 いつまでも泣いている弟を連れて、この街までやってきた。事情を話すと、街の人たちはパンやスープをくれた。それも秋までの事で、服も汚れてぼろぼろになった私たちを見るや否や、街の人たちは顔を歪め、私たちの言葉を無視し始めた。交流のあった子供たちからも石を投げられた。
 街の人たちが変わってしまった理由は知らない。たぶん、こんなにも寒い冬が近づいていたからだと思う。春になって暖かくなればきっと、みんな仲良くしてくれるはずだ。
-
弟は堤防を駆け上がり、橋を渡り始めた。欄干が弟の姿を隠して少し経ったとき、橋の中央辺りでひょこっと弟の頭が飛び出した。欄干によじ登っているのだろう。「危ないから降りよう」と声を出したかったが、声が弟まで届くには、あまりにもか細い声しか出せなかった。
「川に空が見えるよ!」
そう言って弟は欄干に立ち上がり、私に存在を示すように、ぐるぐるとブランケットを振り回し始めた。
「落ちちゃう!やめて!」
私は懸命に腕を振り、降りるように合図した。
心配で胸がひしゃげそうな私は、だんだん弟の声しか聞こえなくなった。
「ぼくはサンタさんにブランケットをお願いするんだよ!お姉ちゃんが寒がらないで済むように!」
緑のブランケットが宙を泳いだ。
-
両親が私たちを捨てた日はとても楽しくて美しかった。森で虫を採ったり、川で泳いだりした。幼いながらも弟の泳ぎは整っていて、あの美しさは忘れられない。夏の青い空、心地よい風、川の流れる音、家族の笑い声。とても楽しかった。
 お母さんが絵本の読み聞かせをした時のことを思い出した。そうだ、私たちは「ヘンゼルとグレーテル」みたいだ。だけど家に帰るためのパンくずは見当たらないし、住んでいるのはお菓子の家じゃなくて、橋の下だ。
「どうしてお父さんとお母さんはいなくなったの」
 時々、弟が私に尋ねた。
「私たちと過ごしたこと、楽しかったことを全部忘れちゃったからよ」
「去年のクリスマスプレゼント、大きな地球儀だった。ぼくは覚えてるよ。サンタさんからは、このブランケットをもらったんだ。お姉ちゃんは水色のマフラーをもらった。ぼくは覚えてるんだ───」
-
 川は深く暗く、弟の見た空は見えなかった。
 私は川の流れる方向、緑のブランケットと弟が流れた方向へ、川縁を歩いていった。一日中歩いたけれども、緑のブランケットも弟も見つからなかった。もしかしたら、橋の下に弟が戻ってきているかもしれない。寂しさのあまり、泣いていたらどうしよう。
 一日かけて川をのぼったが、橋の下に弟はいなかった。ぼろぼろだった私の靴はついに壊れた。
 クリスマスイブ。さんさんさんと鈴の聞こえる中、街の中、行く人に弟の事を尋ねた。みんな私など、そこにいないかの様に振る舞った。お父さんやお母さんも、私たちのことをこうやって忘れていったんだわ。
 街の灯りが点き始める頃、私は暗くなった川に戻り、冷たい冷たい川へ足を入れた。少し進むとあっという間に腰まで浸かり、これ以上は進めなくなった。とても寒い。冷えきった私の体。このまま流れに身を預けてもいい。でも、私は寒さに耐えられなかった。
 川から出て、雪の積もった橋の上を、素足で中央まで歩く。背の高い欄干に手をかけ、裸足で地を蹴ってしがみつく。ようやく見えた橋の下には、星の光を映す川が流れていた。
-
 弟はいなくなった。光の川に溶けていなくなってしまった。私のことを全部忘れてしまったからいなくなったんだわ。
 最後にものを口にしたのは三日前だから、ずっとしがみついている体力は残っていない。ずるずると落ちていった私の頬を、コンクリートのやすりが傷つけた。最後の力を出して体を持ち上げ、欄干を背もたれにして夜空を見つめた。星々は闌干ときらめいている。
 星の光は川に溶けて流れる。光の溶けた川はとても温かそうで、弟だけでなく、お父さんも、お母さんも溶け込んでいるようだ。楽しかった日々は星々となって、光は川に溶け込む。体が動かないので、川に戻ることはできなかった。
「寒いなあ」
目を瞑り、すすり泣いた。緑のブランケットの温もりがなくなって、寒くて、寂しくて泣いた。

「去年のクリスマスプレゼント、大きな地球儀だった。ぼくは覚えてるよ。サンタさんからは、このブランケットをもらったんだ。お姉ちゃんは水色のマフラーをもらった。ぼくは覚えてるんだ。お父さんとお母さんがクリスマスにいつも、ぼくたちに『愛してる』と言うことも」

この涙が止まる頃、忘れてしまうのだろうか。
きっと忘れてしまうんだわ。

さんさんさんと光の流れる音がする。ねえサンタさん、私は緑のブランケットが欲しいな。