死の泉 - 皆川博子

そろそろ皆川博子から離れないといけないお年頃。


死の泉。死海と同じ、塩分の濃い泉。濃度の高い狂気の中で真実はどこに眠るのか。

聖職者は歌う。高い子供の声で。そして、皺ばんだ手をのばし、わたしの胸に鎖をかけた。その先端に、獣の牙がさがっている。フェンリルの牙だ。

この物語には二重の謎がかけられており、読後の者を混乱させる。その理由は本の中に「本」があるからだ。物語自体が「本」で、後書きも含めて物語である。死の泉は皆川博子が書いているが、死の泉の中の「死の泉」はギュンター・フォン・ヒュルステンベルクという人が書いたものを野上晶という人が訳しているといった体裁になっている。このせいで、間違った本を買ってしまったのかと勘違いしてしまった。物語自体が「本」だから、物語の外にまた後書きがあるし、物語の「本」の出版は同じ早川書房でも、発行年が1970年となっている。


Amazonの説明を引用してみる。

第二次大戦下のドイツ。私生児をみごもりナチの施設「レーベンスボルン」の産院に身をおくマルガレーテは、不老不死を研究し芸術を偏愛する医師クラウスの求婚を承諾した。が、激化する戦火のなか、次第に狂気をおびていくクラウスの言動に怯えながら、やがて、この世の地獄を見ることに…。双頭の去勢歌手、古城に眠る名画、人体実験など、さまざまな題材と騙りとを孕んだ、絢爛たる物語文学の極み。

後書きを除けば3部構成の「死の泉」は、作中にちりばめられた歌、カストラート、少女の妊娠、同性愛、そしてクラウスが固執する芸術など、それらの題材が見せる艶美さに心囚われる。しかし、最後のどんでん返しと二重構造のギミックで「死の泉」は読者を突き放す。本の中に「本」があるという時点で想像できるかもしれないが、物語中の小説「死の泉」はフィクションである”可能性”という事が「死の泉」の著者、ギュンターによって明かされる。こう書くと意味が分からないが、小説「死の泉」は物語の世界における事実とフィクションを混ぜた「物語」である”らしい”と仄めかされているという事だ。うん、分からない。一応、括弧を付けた単語がギュンターの小説で、括弧なしの単語が皆川博子の小説だと説明しておく。


普通は物語があって、それを読むことで読者はその世界を自分の中に構築してゆく。そうすると、物語の中で人が魔法を使おうが不思議ではないはずだ。物語の中にも真実があり、例えば魔法が使えるという真実を許容して僕等はその世界に入り込む。
まずは「死の泉」を読み、最後に明かされる”真実”で驚愕する。「ああ、本当はこういう事だったんだ」という感想を持つし、「死の泉」がミステリーとして書かれているため、叙述トリック的な謎を多く残していて、あれこれと考察する事ができる。美しさと、残される謎による読後感が、僕が皆川博子作品を好きな理由であり(「死の泉」はギュンターによるものとされているが、敢えて作風を変えていたりはしない)、この時点で既に素晴らしい作品だと思った。しかし、次の後書きで、マルガレーテやクラウスのいた「世界」は作り物であると言われ"真実"の真偽が分からなくなる。ドイツのフューラーは存在するし、レーベンスボルンも存在する。少なくとも、地名においては全て存在する。私たちの世界でも存在するし、物語の中でも存在する。でも、「地名や世界観だけ借りて、物語自体はフィクションなんですよ」とギュンターに言ってもらえれば読者は苦労しない。後書きこそが読者の混乱を引き起こす、最大の謎である。「死の泉」の後書きでは、記述された「死の泉」が死の泉の世界の”事実と違う”、フィクションである証拠と、「死の泉」が世界観だけでなく、登場人物においても"事実を踏まえている"、フィクションでない”可能性”の証拠が示される。こうやって作中の世界の足場は崩壊し、読者は判断材料を失う。真実を知っているのは皆川博子と、著者であるギュンターのみだ。そんなのは当たり前だけど、この二重構造が手のつけられない程の大きな謎を残す。


考察対象の謎が大きすぎるため、物語の世界における真実を追求する意味はない。というか、無限や宇宙のように巨大な謎の前では無意味だ。だけど、物語に対して無駄に思いを馳せるのは、物語好きな人間の性。ひとつだけ言っておくと、真実を記述している部分は、マルガレーテがレーベンスボルンに入ったなどの、マルガレーテに対する客観的な描写のみで、他は、著者がマルガレーテから聞いた話を物語にしたのではないかと思う。他人の感想を見てみると、2chのスレッド(http://piza.2ch.net/log2/book/kako/942/942920257.html)の解釈が面白かった。研究レポートの表を見ると、被験体はたくさんいるみたいだし。


簡潔に言えば、この小説の読感を書くのは難しいという事です。